承ジョナと楽しい仲間たち

竹葉の書いた承ジョナのログを上げ続けます

お買い物承ジョナ

短い。スーパーでうらうらする二人。

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融点まで融かされたかのような橙色の中、ジョナサンは野菜コーナーの前で立ち止まっていた。親戚である空条家に、一時的であるが住まわせてもらっている身として、空条ホリィに何か手伝うことはないかと聞いたのが始まりであった。それじゃあ、スーパーに行って買い物をして貰おうかしら、そう言った彼女の提案に何も考えず了解を出したジョナサンではあったが、よくよく考えると『買い物』といったものをしたことが無いと、道を歩いているうちに気が付いた。
イギリスの実家にいる時にした買い物など、一人で学校帰りにこっそりと行ったチップスの買い食いくらいである。他はハウスキーパーたちが食材の買い出しから、衣料品の買い付けまで、誰かがジョナサンの代わりに行ってくれただけに過ぎない。ジョナサンは手元のメモ用紙を見て、むうと一つ唸った。
ナス、キュウリ、トマト。生鮮野菜コーナーで買うべきものは見つけることが出来た。ただ、野菜一つとっても大きさや種類、袋に入っている個数までがばらばらである。鼻腔に低い声を響かせながら、ジョナサンは正解の野菜を探した。ホリィは特に何か指定をしてきたわけではない。それこそが問題でもあった。ジョナサンには、野菜の加工される前の姿と、加工された後の姿の連続性が分からない。どの野菜がどの料理に化けるのか、台所で料理をするホリィの手元でも見ておけば良かったと思った。
ジョナサンは意を決して、三つ四つ入った袋をカゴの中に入れていった。トマトの上にキュウリの袋を乗せると、ぎゅう、と擦り付けられるような音がして、ジョナサンは慌ててトマトをカゴの一番上に持っていった。
次は豆腐である。ジョナサンは豆腐コーナーの種類の豊富さに眩暈がした。お味噌汁に入れるから、とホリィが言っていたので、多分、この気泡が多く入った豆腐を指しているのだろうとジョナサンは木綿豆腐の前に足を延ばした。そうしてまた困り果てる。穴の空いた豆腐は、棚の上から下まで、大きな違いなど分からないだろうと嘲るように並んでいた。ホリィの作る味噌汁は旨い。旨いが、それが豆腐の違いによって生み出されているのかどうか、ジョナサンには分からなかった。
一つ溜め息を吐くと、隣に人影が差してきた。ジョナサンは邪魔にならないように横に移動する。と、影は腕を引っ張って、豆腐コーナーの前に体を引き戻した。どきりとして横に目を向けると、そこには学校帰りであろう、空条承太郎がいた。空条家の一人息子である彼は、スーパーにほとほと似合わない見た目でジョナサンの腕を掴んでいた。
「お帰り、承太郎」
ジョナサンが目を一度二度瞬かせているうちに、承太郎は二番目くらいに安い木綿豆腐を手に取って、ジョナサンのカゴに入れた。
「いつまでかかってんだ。ババアが心配してたぜ」
承太郎はそのままジョナサンのカゴをひったくると、すたすたと別のところに歩いて行った。ジョナサンはメモをちらりと見下ろして、承太郎の後ろについていく。
「もしかして、見に来てくれたの?」
承太郎からの返事はない。しかし沈黙こそが彼の肯定だと知っているジョナサンは、へへ、と間の抜けた声色で笑った。
「次はね、コンニャクだってさ」
「そこの棚にある。好きなやつでいいから取ってこい」
ジョナサンは丸いコンニャクを持って行って、承太郎に、それは違う、と突き返された。ジョナサンは茶色く味の沁みた丸いコンニャクが好きだった。承太郎も、確か好きだったと記憶している。二人でころころ箸の上を転がしながらコンニャクを口にしていた筈だった。
「煮付けにするから、麺みたいなやつにしろ」
「色が何個かあるよ」
透明の、と承太郎に言われ、ジョナサンはぱんぱんに張ったコンニャクの袋を手に取った。カゴの中を覗くと、調理前の食材たちがごろごろと放り出されたように入っている。これらを数々の料理に変化させる手腕に、ジョナサンはこっそりと感動した。
「今度、僕も料理をしてみようかなあ」
ジョナサンが卵コーナーを覗きながら言うと、承太郎が嫌な顔をして振り返った。
「スーパーもろくに使えないのに、できんのかよ」
「それは、承太郎にも助けてもらってさ」
「手伝う前提かよ」
承太郎は卵が十個入ったパックを、カゴの端に寄せるようにして入れた。そうすると卵が潰れないで済むのか、とジョナサンは少し納得する。そして、この程度で納得してしまう自分が料理を作るのは、確かに難しいかもしれないな、と思った。
橙色の光が、大きな採光窓から通路に向かって一直線に差してくる。用の無い通路を横切るたび、頬の片一方がじんと焼けるような気がした。前を行く承太郎はあまりジョナサンを振り返らない。大きな、しかし自分よりも狭い背中で、ジョナサンの行く先を示してくれる。ホリィも、家の中で活動するときは、あの小さな背中で全ての仕事を仕切ってくれている。
「かっこいいねえ」
「どこがだ」
加工肉コーナーの真ん前で立ち止まった二人は、ハムを目の前にして顔を見合わせた。承太郎は普段ジョナサンの前でよくする、少し呆れたような、不可解に思っているような顔でこちらを見つめていた。ジョナサンは二番目に安いハムのパックを手に取って、カゴの中に入れた。そうして、薄く笑う。
「やっぱり、僕も料理、勉強するよ」
暫くの間、承太郎は口を薄く開けて何かを言う素振りを見せたが、そのまま前を向いて、別の場所に歩いて行った。ジョナサンはその後ろをついていく。多分、もうそろそろ、レジに行って清算をするのだろう。それくらいは自分にやらせてほしい、とジョナサンは強く思った。

四部太郎と年下ジョナサン

ツイッターの方で1、2と続けて載せたミニ小説です。かなり短くて「これは大丈夫なんだろうか…」とかなりヒヤヒヤしていました。以前書いた学パロ承ジョナでも、途切れ途切れに小説を書いていて、それもまとめるのに苦労したので、この作品もなんか不安が多いやつです。

実は続きを書きたい気持ちはあって、それだったらちゃんと纏めて書きたいな〜と思っていたりします。

あと四部太郎と銘打っていますが正確には「歳をとってコミュ力の落ちてきた承太郎」のことを指しています。

 

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人を好きになって、大抵、良い思いをしたことがない。

生まれつきのお人好しが損をさせるのか、幼い頃から付き合っていた彼女は寝取られ、成人になってから知り合った親友はいつのまにか事業で大成し、最近では会うこともまばらである。誰かの大切になる、ということは難しいことなのだと思う。自分が他人を大切に思うことよりも、何倍も何倍も、難しい。大体にして、その二人くらいしか知り合いがいないことが原因なのでもあるし、結論であるようにも思えた。

ジョナサンはひたすらに孤独だった。孤独に慣れ親しみ匂いをすっかり染み着かせた体ではあるが、だからといって人嫌いなわけでも、孤独でいたい訳でもなかった。

なぜこうなったのだろう、と疑問を呈するタイプの人間ではなかった。ただ寂しく、手足を冷たい氷水に浸してしばらく生きていただけだった。好きな人は、今でも欲しかった。けれどどこかで、これ以上酷い目に遭いたくないという思いもあった。そしてその上を行くお人好しさで、ジョナサンは傷付いたって構わないほどに、人というものを好きでいた。

「このカフェは、よく来るんですか」

「あまり、来たことがない」

そう思うと、向かいに座る男は一体どんな精神状態で己に声をかけてきたのだろう。

白いロングコートと独特のピンバッチが付いたキャップを被った男は、出会ってすぐに自己紹介をした。空条承太郎。奇しくもジョナサンとあだ名が同じの男。美丈夫で、ジョナサンと同じくらいに背が高く、道を歩くだけで男も女も振り向く人間。

ジョナサンはいつも通う図書館で空条氏に声をかけられ、今は近くのカフェにまで来ている。一体、何事なのだろう。ジョナサンは自身の魅力と呼べるものを今まで散々に蹴散らされて来たため、相手を惹きつけるものに覚えが少しもなかった。

空条氏はカフェの椅子に、長い足を持て余すようにして座りながら、帽子の鍔を弄っている。定位置が決まらないようにあちらにやり、こちらにやり、そして少し咳払いをする。ジョナサンは空条氏が口を開かないでいるので、仕方なくお冷で唇を濡らしてから、声をかけた。

「あの、僕はジョナサン・ジョースターといいます。その、空条さんはどうして、僕に声をかけたのでしょうか」

「敬語はいらない」

「はあ」

小さく溜め息のように返した声に、空条氏は目を細めてゆったりと話し始めた。

「以前から、君を見て、気になっていたんだ。とても研究熱心な学生のようだったから」

「僕は学生じゃないけれど」

そう言うと空条氏はばっと顔を上げて、失礼した、と呟いた。

「何の仕事をしているか、聞いても?」

学芸員をやっています。博物館の」

「なるほど」

空条氏はまた言葉を止めた。ジョナサンは元々口下手な方ではあったが、彼の前にいると普段の数倍やり辛さを覚えた。まるで時間をいちいち止めて話をしているようだ。そうであるならば、彼はもっと言葉を練ってから時間を戻せばいいのに。

空条氏は長く節ばった指を膝の上で交差させ、ジョナサンのことを見つめていた。鮮やかな青緑の瞳がきらきらと光っていて、ジョナサンは空条氏のそこだけをすぐに気に入った。

「空条さんは、」

「承太郎で良い」

「承太郎さんは、何のお仕事をしているんですか」

空条氏は水を一口飲み、テーブルに肩肘を乗せ、顔を近づけるようにして話した。

「私は大学で水棲生物の調べ物をしている。教授というやつだ」

「素晴らしい、お仕事だね」

ジョナサンは敬語を取るのに塩梅が掴めず、何とも妙ちくりんなイントネーションで言葉を発した。空条氏はジョナサンの言葉に、瞳の色を淡くさせた。彼の強張りが少し溶けたような気がする。綺麗だな、ジョナサンはぼんやり思う。

「それで結局、どうして僕なんかを誘ったんだい?」

「一度、話してみたかった。どうしても」

「では何か聞いてみたら」

そう提示すると、空条氏はまた顔を厳しいものにして、それを今考えている、と言った。ジョナサンはまたこの人が時間を止め損ねたことに気付いていた。

「いや、けれど君が好むものは大体知っているんだ。図書館で借りている本たちを見てしまえば」

「なるほど、それはたしかに」

話がぱつんと糸を切られたように終わってしまう。ジョナサンは質問を受ける側の筈なのに、このままでは間が持たないと焦りを覚え始めた。声をかけてきたくせにやたらと無言の多い大学教授は、それはもちろん変てこりんな存在ではあったけれど、だからといって彼との会話の機会を無下にしていいわけではないと思った。ジョナサンはテーブルの上のメニューを大仰に開くと、空条氏の目の前に突き出した。

「な、何か食べるかな」

「では、コーヒーをひとつ」

すらりとした指を一本挙げて、空条氏は滑らかに言った。ジョナサンは慌ててメニュー表を自分で見て、ドリンクカテゴリを探した。近くを通る店員にオーダーをして、やっとひとつ労働を終えたかのように息を吐いた。空条氏は相変わらずの切れ長な瞳でこちらを見据えていて、ジョナサンは己の姿かたちを意識せざるを得なかった。

「例えば」

空条氏が口を開いた。ジョナサンは水中にやっと与えられた空気を求めるように言葉を聞く。

「例えば、君が、とても興味のある人物に近付きたいと思ったら、どうするんだ」

空条氏は薄い骨を揺らす低音で、そう聞いた。ジョナサンは顔に出さないようにして驚いた。おそらくだが、空条氏の言う『興味のある人物』とは今ここにいる自分のことなのだろう。ジョナサンは己が他人に興味を持たれていること、そして近付きたいと思われていることにとても仰天し、暖色の嬉々が広がるのを感じた。

「ええっと、それは、やっぱり声をかけて、カフェにでもお誘いをするかな」

言ってから、これは空条氏のしていることそのものだと気付いて、ジョナサンはぱっと頰を染めた。空条氏はゆっくり瞬きをして、そうしてから優しく笑ってみせた。

「それでは、どうやら私は合っていたようだな」

あまりにも彼の微笑みが優しいもので、ジョナサンは気恥ずかしさがむわむわと心中に立ち昇るのが分かった。

「上手いんですね」

「なにが」

ジョナサンは早く紅茶が来ないか指を組みながら思った。

「こういう…人を喜ばせることを、言うのが」

空条氏はぱちくりと目を瞬かせ、それから照れくさそうに帽子の鍔を下げた。どうやらこの人は、照れ隠しに帽子をいじる癖があるようだ。

「いいや、下手だ。人を楽しませるなんてこと、てんで駄目だ」

頰に溢れた柔らかな髪を耳にかけて、テーブルの縁を瞳でなぞってから話す。

「けれど君を喜ばせることができたのなら、嬉しい」

ジョナサンはまたしても気恥ずかしさに呼吸が苦しくなるような気がして堪らなくなった。なんだ、なんなんだ、この男は。

ジョナサンに他人を魅了する力がないのなら、空条氏は、魅了の塊じゃあないか!

 


思えば、自分は意図して誰かと繋がろうとしたことなど無かった。それは承太郎が単に人と繋がりたいと思うタイプではなかったというのもあるし、むしろ他人とのやり取りを忌避する方だということもある。自然と人は近付いていくものだし、合う合わないだってあるだろう。今まで困ったことは無かったし、恐らくこれからも、困ることはないだろうと踏んでいた。

そういうことで、承太郎は人に近付く為の手段を、殆ど持ち合わせていなかったのである。

「あ、ごめんなさい」

青年に会ったのは秋の半ばの休日であった。日の落ちるのが随分と早くなった日の中で、承太郎は習慣としている図書館への来館を果たしていた。図書館はとても良い場所である。時々、長期休暇前の学生で溢れかえる時以外は、静かで、不干渉で、知識に満ちた場所だ。承太郎はフィールドワークで海に出ることも好きだったが、時には腰を下ろしてずっぷり読書に浸ることも好きだった。

いつもの特等席になった、図鑑で溢れている奥のソファには、全くと言っていいほど人が近寄らない。承太郎は自分の部屋のように足を伸ばして、『生物』コーナーの図鑑の端から本を読んでいく。ページをぱらぱらとめくるうちに、一つ飛ばしたソファへ誰かが座るのが気配で分かった。何となく、そちらへ目を向ける。こんな所にわざわざ座りにくるなんて奴は、自分のように研究熱心な者以外そうそういない。

ぱちり、と緑色の丸い瞳と目が合った。承太郎はぎょっとしてすぐに視線を逸らした。代わりに書架の分類カードが目線の先にぶつかる。承太郎は自分が目にしたものが人間の眼球だということに、おかしなことだが変に動揺してしまっていて、一度二度と目を瞬かせた。

もう一度、己がみたものを確認したくて、承太郎は左側に座ったものに目を向けた。ソファに座っていたのは、承太郎よりも大きな体つきをした青年だった。青年は糊のきいたシャツとスラックスを着て、肘掛けに厚い本を何冊か重ねていた。承太郎はまた目を逸らした。他人をじろじろと見るのは失礼で、自分らしくない。意識を逸らして手元の本に顔を向けた。

途端、ばさばさと本が落ちる音がした。

「あ、ごめんなさい」

潜められた声、横を向くと青年が肘掛けに乗せていた本を床から拾っている所だった。恐らく、広い肩で本を落としたのだろう。落ちた拍子に本の題名が見える。どれもが民俗学や考古学の類の本だった。承太郎は手伝いもせずに、その青年の姿をじっと見ていた。大きな体からは想像もつかないほどの童顔で、木の実を連想させる丸い瞳をしている。いそいそとしゃがみ込んで本を集める様は、熱心な学生にも見える。

青年は本を集め、今度は自分の膝の上に置くと、世界を隔絶するように集中して本を読み出した。承太郎は、こんな若い青年にこの本を読み切ることができるのだろうか、と思った。そうして、過去の自分も学生時代にああやって本を読み耽っていた事を思い出し、少し恥じらいを覚えた。栗色の髪の毛に、緑の瞳。承太郎はこの青年が脳裏に印刷されていくのを覚えた。きっと、また自分は彼を図書館で探す。そんな気がしたのだ。

「そうして、君が知らないうちに、私は君と何度か出会って、君のことがもっと知りたくなったという訳だ」

承太郎は運ばれてきたコーヒーを一口飲むと、対面に座るジョナサンに説明した。彼は本を読むときとは打って変わって、どこか不安げに視線を揺らしている。ジョナサン・ジョースター、忘れないように、後でメモもしておこう、承太郎は思った。

「その、ありがたいです、けど。僕はあなたを喜ばせるようなこと、できないよ」

ジョナサンは光の角度によってオリーブに見える栗毛を、端の方だけ摘んで言った。承太郎は不思議な気持ちになる。どうして、彼が自分を喜ばせるなんてことになるのだろう。

「私は君に興味があって、近付きたくて、こうして話しかけたんだ」

そう言うと、ジョナサンはまた困ったような顔をして、手元のティーカップを回す。なぜこんなに、思いを伝えることは困難なのだろう。承太郎はただ、ジョナサンのことが気になっているだけなのだ。理由や根拠なんて、どうだって良いだろうに。

「これからも図書館に来てくれ」

今までと変わらずに、ずっと。承太郎はそう言って椅子から立ち上がった。伝票を指の端に挟んで、カウンターを目指す。

「待ってください」

後ろで、ジョナサンが呼び止める。承太郎は足を止めて振り返った。ジョナサンは寒さからか、頰をほのかに染め、唇を何度か噛みながら言った。

「僕、あの、ちゃんと図書館に行きます。前みたいに行きますから…今日みたいに、お茶に、誘ってもらえない、かな」

ジョナサンは言ってから、とても後悔するように視線を地面に落とした。承太郎はその仕草を見て、この事もメモしたい、と思った。

承太郎はジョナサンの側に歩くと、座ったままの彼の肩に、すいと手を乗せた。鍛えられた筋肉で、ジョナサンの体温は随分と高かった。

「もちろん」

するとジョナサンは瞳をちかちか光らせて、何か言葉を乞うように喉を上げた。承太郎は何を言えば良いのか分からない。ただその伸びた首が滑らかで、無意識にジョナサンの襟元を撫でていた。彼はばっと顔を赤らめる。

承太郎は少し笑うと、カウンターへ行き、振り返らずにカフェを出て行った。

ジョナサンは何が欲しかったのだろう。承太郎には分からない。ただ、これからもジョナサンに会えるということが楽しみで、受け取ったレシートを口元にやり、薄く持ち上がった口の端を擦った。

 

幸福な澱

コーヒーと承ジョナ

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コーヒーを蒸らしている時、一瞬と言っても過言ではない時間、空白が出来る。承太郎は狭いキッチンスペースに昇る湯気の行く先を見ていた。黒い泡と砕かれたコーヒー豆がぶくりと盛り上がり、独特の香ばしさが鼻をくすぐった。
リビングには従兄弟のジョナサンが居て、テレビ画面をぼんやりと見ている。静かなアパートの中でも音量を相当に低くしているのか、承太郎のところまでテレビの音源は聞こえてこなかった。大学で一人暮らしをしている承太郎の家に、ジョナサンはこうして度々やってきた。大学のゼミ仲間も承太郎の1LDKの部屋にやって来ることがあったが、それ以外の日は殆どジョナサンがいると言ってもいい。博物館の学芸員をしている彼は、夕方になるとまるで我が家に帰るかのように承太郎の家を訪問していた。最初は久しぶりに会う従兄弟にどぎまぎしていた承太郎であったが、あまりにも顔を見せてくる頻度が多いため、その緊張は一月もしないうちに立ち消えた。承太郎は彼のことを追い出したり、遊びに来すぎだ、とそれとなく責めたりすることはなかった。ジョナサンは普段から話をする方ではなく、承太郎ではおいそれと買えない食材や飲料を持ってやって来るので、それほど不快だとは感じなかった。
一つ、不便だと思うことがあるとすれば、彼は紅茶党で、自分がコーヒー党だということだ。承太郎が飲み物を飲もうとする時、一人分だけ淹れるのも不親切かと思って大目にコーヒーを入れた際、ジョナサンは「実はコーヒー、飲めないんだ」と遠慮がちに言っていた。それから承太郎は安物のティーパックを買い込んで、ジョナサンの分を賄っている。渋の付き具合が違うマグカップを見下ろして、承太郎はその赤茶けた輪をじっと眺めていた。ジョナサンは洗い物をしなかった。そもそも、アパートのキッチンは人が一人入ればそれで満杯、というほどの広さしかなく、手伝ってもらう訳にもいかなかった。清潔にはしているが、限界のあるキッチンの中で、承太郎はコーヒーがドリップポッドに落ちるのを待っていた。
「ソファがさ」
リビングの方から声がして、承太郎はジョナサンのいる方へ首を伸ばした。ジョナサンは承太郎の方を向いて、ソファの背もたれをぐいぐいと引っ張っていた。
「ソファ、もうすっかりへなへなになっちゃったね」
入れ代わり立ち代わり人のやって来る部屋の、足の無いタイプのソファは、様々な人間の体重で随分とへたってしまっていた。安物だから、という理由もあるだろう。中のウレタンがぺしゃんこになって、尻の位置によってはフローリングの硬さが分かるほどになっていた。実際、知人の中で一番体が大きいのはジョナサンなので、彼が一番の要因であるのかもしれない。とはいってもソファを買う際に資金的援助をしてくれたのも彼だったので、承太郎は何とも言えない気持ちになった。
「また買いに行こうか」
「まだ、多分使える」
承太郎はコーヒーをマグカップに移し替えて、リビングの方へ歩いて行った。ジョナサンが見ていたテレビ番組は、録画していた洋画だった。承太郎も好きな、探偵ものだった。ジョナサンは何度か見ただろうその映画を、眼球の上だけで流すように見ていた。重さに押し負け、背もたれから腰を乗せる部位まで弱っているグリーンのソファは、ジョナサンの背をなんとか支えていた。
「紅茶淹れてくる」
一口だけコーヒーを飲んだ後、承太郎はマグカップを持ったままキッチンの方へ向かおうとした。するとジョナサンは急にテレビの電源を落として、承太郎を見上げた。
「飲んでみたい」
それ、とジョナサンは承太郎が持っていたマグカップを指差した。驚き、カップからコーヒーが零れそうになって、承太郎はたたらを踏んだ。
「アンタ、コーヒー飲めないだろ」
「飲めるようになりたいんだ、良いだろう?」
承太郎はジョナサンとは反対側のソファに座り、彼の顔を値踏みするように見た。こちらの一人用ソファは、まだ現役で使える反発力をしていた。ジョナサンの瞳は言いようによってはうんざりするほど澄んでおり、冗談でないことを伝えてくる。承太郎はマグカップを二人の間にあるホワイトの卓袱台へ置いた。ジョナサンが手を伸ばすのを叩き落として、承太郎は背もたれにしっかり体重を乗せた。
「絶対、苦いって言って飲めないぜ」
「今日は、分からないだろう」
脈絡のないやる気を見せて、ジョナサンはにんまりと笑って見せた。ジョナサンがここまでやる気を見せるのは、学芸員の仕事をしている時か、それに準じた書き物をしている時ぐらいだ。承太郎は首の後ろを摩る様に撫でて、視線を逸らす。するとまたジョナサンがマグカップへと手を伸ばしてくるので、承太郎はまたそれをはたいた。
「なんでだよ」
ジョナサンが肩を竦める。今までにも、彼は何度かいたずらにコーヒーを飲むことがあった。しかも殆ど一口でやめて、承太郎が二杯分のコーヒーを飲む羽目になるのだ。今日は一杯分しか淹れていないが、それでも同じような素振りを見せるのは明白だった。
「ぜったい、大丈夫だから」
ジョナサンが白い拳を見せて、やる気のアピールをした。承太郎は仕方なく、ジョナサンにコーヒーを譲る。彼はやり取りの合間放っておかれて少し冷めたコーヒーを、一口飲んだ。
「ぐえ」
「ほら見ろ」
思い切り顔を顰めたジョナサンの手からコーヒーカップを取ろうとすると、彼は珍しくそれを自らの陰に隠して、もう一口カップに口付けた。承太郎は意地を張るジョナサンを馬鹿だと思い、そしてそのカップは自分専用のものなのに、と少し気恥ずかしく思った。ジョナサンは時折唸りながら、ちびちびとコーヒーを喉の奥に流し込んでいく。コーヒーの旨味など、分かるのだろうか。
かなりの急ピッチでジョナサンはマグカップを呷ると、空になったカップを承太郎に突き出してきた。
「飲んだぞ」
渋い顔をして、そして誇らしげに笑って見せた。白い歯の表面にコーヒーの茶色が付いていて、承太郎は溜め息を吐いてコップを預かった。中には黒い渋が輪になって残っている。確かに、中身は空だった。
「もうやるなよ」
「良いんだ、分かってくれれば」
結局何が分かってほしいのか、承太郎にはさっぱり理解できなかった。

このブログについて

個人ブログを作ろうとノートパソコンに向かい意気込んだものの、あまりのパソコンの重さと己の小ささに絶望して逃げ込んだブログです。

基本的に支部などに上げた小説たち(主に承ジョナ)(他も普通に混ぜる)を保管する倉庫の役割を果たしてくれる筈です。