承ジョナと楽しい仲間たち

竹葉の書いた承ジョナのログを上げ続けます

幸福な澱

コーヒーと承ジョナ

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コーヒーを蒸らしている時、一瞬と言っても過言ではない時間、空白が出来る。承太郎は狭いキッチンスペースに昇る湯気の行く先を見ていた。黒い泡と砕かれたコーヒー豆がぶくりと盛り上がり、独特の香ばしさが鼻をくすぐった。
リビングには従兄弟のジョナサンが居て、テレビ画面をぼんやりと見ている。静かなアパートの中でも音量を相当に低くしているのか、承太郎のところまでテレビの音源は聞こえてこなかった。大学で一人暮らしをしている承太郎の家に、ジョナサンはこうして度々やってきた。大学のゼミ仲間も承太郎の1LDKの部屋にやって来ることがあったが、それ以外の日は殆どジョナサンがいると言ってもいい。博物館の学芸員をしている彼は、夕方になるとまるで我が家に帰るかのように承太郎の家を訪問していた。最初は久しぶりに会う従兄弟にどぎまぎしていた承太郎であったが、あまりにも顔を見せてくる頻度が多いため、その緊張は一月もしないうちに立ち消えた。承太郎は彼のことを追い出したり、遊びに来すぎだ、とそれとなく責めたりすることはなかった。ジョナサンは普段から話をする方ではなく、承太郎ではおいそれと買えない食材や飲料を持ってやって来るので、それほど不快だとは感じなかった。
一つ、不便だと思うことがあるとすれば、彼は紅茶党で、自分がコーヒー党だということだ。承太郎が飲み物を飲もうとする時、一人分だけ淹れるのも不親切かと思って大目にコーヒーを入れた際、ジョナサンは「実はコーヒー、飲めないんだ」と遠慮がちに言っていた。それから承太郎は安物のティーパックを買い込んで、ジョナサンの分を賄っている。渋の付き具合が違うマグカップを見下ろして、承太郎はその赤茶けた輪をじっと眺めていた。ジョナサンは洗い物をしなかった。そもそも、アパートのキッチンは人が一人入ればそれで満杯、というほどの広さしかなく、手伝ってもらう訳にもいかなかった。清潔にはしているが、限界のあるキッチンの中で、承太郎はコーヒーがドリップポッドに落ちるのを待っていた。
「ソファがさ」
リビングの方から声がして、承太郎はジョナサンのいる方へ首を伸ばした。ジョナサンは承太郎の方を向いて、ソファの背もたれをぐいぐいと引っ張っていた。
「ソファ、もうすっかりへなへなになっちゃったね」
入れ代わり立ち代わり人のやって来る部屋の、足の無いタイプのソファは、様々な人間の体重で随分とへたってしまっていた。安物だから、という理由もあるだろう。中のウレタンがぺしゃんこになって、尻の位置によってはフローリングの硬さが分かるほどになっていた。実際、知人の中で一番体が大きいのはジョナサンなので、彼が一番の要因であるのかもしれない。とはいってもソファを買う際に資金的援助をしてくれたのも彼だったので、承太郎は何とも言えない気持ちになった。
「また買いに行こうか」
「まだ、多分使える」
承太郎はコーヒーをマグカップに移し替えて、リビングの方へ歩いて行った。ジョナサンが見ていたテレビ番組は、録画していた洋画だった。承太郎も好きな、探偵ものだった。ジョナサンは何度か見ただろうその映画を、眼球の上だけで流すように見ていた。重さに押し負け、背もたれから腰を乗せる部位まで弱っているグリーンのソファは、ジョナサンの背をなんとか支えていた。
「紅茶淹れてくる」
一口だけコーヒーを飲んだ後、承太郎はマグカップを持ったままキッチンの方へ向かおうとした。するとジョナサンは急にテレビの電源を落として、承太郎を見上げた。
「飲んでみたい」
それ、とジョナサンは承太郎が持っていたマグカップを指差した。驚き、カップからコーヒーが零れそうになって、承太郎はたたらを踏んだ。
「アンタ、コーヒー飲めないだろ」
「飲めるようになりたいんだ、良いだろう?」
承太郎はジョナサンとは反対側のソファに座り、彼の顔を値踏みするように見た。こちらの一人用ソファは、まだ現役で使える反発力をしていた。ジョナサンの瞳は言いようによってはうんざりするほど澄んでおり、冗談でないことを伝えてくる。承太郎はマグカップを二人の間にあるホワイトの卓袱台へ置いた。ジョナサンが手を伸ばすのを叩き落として、承太郎は背もたれにしっかり体重を乗せた。
「絶対、苦いって言って飲めないぜ」
「今日は、分からないだろう」
脈絡のないやる気を見せて、ジョナサンはにんまりと笑って見せた。ジョナサンがここまでやる気を見せるのは、学芸員の仕事をしている時か、それに準じた書き物をしている時ぐらいだ。承太郎は首の後ろを摩る様に撫でて、視線を逸らす。するとまたジョナサンがマグカップへと手を伸ばしてくるので、承太郎はまたそれをはたいた。
「なんでだよ」
ジョナサンが肩を竦める。今までにも、彼は何度かいたずらにコーヒーを飲むことがあった。しかも殆ど一口でやめて、承太郎が二杯分のコーヒーを飲む羽目になるのだ。今日は一杯分しか淹れていないが、それでも同じような素振りを見せるのは明白だった。
「ぜったい、大丈夫だから」
ジョナサンが白い拳を見せて、やる気のアピールをした。承太郎は仕方なく、ジョナサンにコーヒーを譲る。彼はやり取りの合間放っておかれて少し冷めたコーヒーを、一口飲んだ。
「ぐえ」
「ほら見ろ」
思い切り顔を顰めたジョナサンの手からコーヒーカップを取ろうとすると、彼は珍しくそれを自らの陰に隠して、もう一口カップに口付けた。承太郎は意地を張るジョナサンを馬鹿だと思い、そしてそのカップは自分専用のものなのに、と少し気恥ずかしく思った。ジョナサンは時折唸りながら、ちびちびとコーヒーを喉の奥に流し込んでいく。コーヒーの旨味など、分かるのだろうか。
かなりの急ピッチでジョナサンはマグカップを呷ると、空になったカップを承太郎に突き出してきた。
「飲んだぞ」
渋い顔をして、そして誇らしげに笑って見せた。白い歯の表面にコーヒーの茶色が付いていて、承太郎は溜め息を吐いてコップを預かった。中には黒い渋が輪になって残っている。確かに、中身は空だった。
「もうやるなよ」
「良いんだ、分かってくれれば」
結局何が分かってほしいのか、承太郎にはさっぱり理解できなかった。